2010.05.03 Monday
憲法記念日(永田)
今日は憲法記念日です。1947年に日本国憲法が制定されたのを記念して定められた祝日です。3年前のことになりますが、北海道新聞の「越境両断」というコーナーで、憲法改正に賛成する立場から答えたインタビュー記事を掲載頂いたことがあります。護憲派に位置する北海道新聞に、憲法改正賛成の立場で記事が掲載された数少ない事例の一つだろうと思います。当時、文化部を担当しておられたT記者と酒席で盛り上がり、その話面白そうなので後日取材してもいいかと打診頂いたのがきっかけでした。
1947年の日本はまだ占領下でした。占領下に制定された憲法を保持している国家は、国連加盟国の中で日本だけです。そもそも、占領中にその国の憲法を制定させるという当時の米国の行為が、国際慣例としては異例と言えると思います。我が国は日本国憲法を主権を有する立場で立法機関(国会)において承認したことが一度も有りません。サンフランシスコ講和条約が成立し、独立を回復してから改めて、日本国憲法の発効を国会決議しておくべきではなかったかなと思います。手続き上の話から言えば、我が国の正式な憲法は大日本帝国憲法(いわゆる明治憲法)なんだけれども、実際は日本国憲法がデファクトスタンダードとして使われている、というのが現在の我が国の状況だと思います。
憲法改正というと必ず9条が論点になりますが、僕が記事において改正を主張したのは9条ではありません。9章です。憲法改正をほぼ不可能にしている96条が書かれている章です。憲法改正は国会だけでできるようにして欲しいです。立法府なんですから。憲法すら変えられなくて何が立法府だと思います。我々国民は立法という権利を付託するために国会議員を選挙で選び、養っているのです。
改正して欲しいもう一つ。前文。僕は日本国憲法の前文が好きになれません。ルース・ベネディクトの「菊と刀」の匂いがするからです。日本人論としてあまりに有名な「西洋人は罪の文化、日本人は恥の文化」という、あれです。日本人は外界からの目が無いとモラルを守れない。だから外から律してやらなければいけない。未だにこんな低俗な日本人論が読まれている理由が、僕にはさっぱり理解できません。我々が恥を感じる相手は、ご先祖様であり、お天道様であり、更には自分自身なのであって、外からの規律ではありません。清き明き心を美徳とする神道の価値観を縄文の昔から大切にしてきた民族を舐めるなと言いたいです。外から律しないと何をするか判らない日本人を律するために作られたのが日本国憲法。だから簡単に変えられない(縄が解けない)ように、非現実的な改正条項(96条)が付いています。その精神を端的に謳ってるのが憲法前文。菊と刀の匂いがぷんぷんします。
憲法とは、国の在り方を規定するためのものです。憲法は権力を縛るためのものだと思っている人が多いですが、大間違いです。誰が権力を握っても大したことができないようにガチガチに縛った上で、誰が政権を取っても同じとばかりに政治に関心を持たないのは有権者の怠慢です。我々の投票行動こそが権力を縛るのです。これ以外のもので、権力を縛るべきではありません。条文で権力を縛るのを自縄自縛といいます。我々国民が付託した権力なのです。縛られるのは我々なのだと気付かなければいけません。また、権力を縛ると有権者が劣化します。例えば、日本国総理大臣に核ミサイルのボタンを押す権利が与えられていたとしたら、それでも「お灸を据えたい」という傲慢で無責任な投票動機を保持する人がどのくらいいるでしょうか。
酒席ではこんな話題で盛り上がったのですが、記事に掲載頂いたのはごく一部です。興味が有る方はこちらからご覧ください。