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CSWブログ

北海道に生まれた民間宇宙開発企業カムイスペースワークス。 略して「CSW」 ブログはこちらに引越しました。
「命が一番大事」という神話(永田)
 久しぶりのエントリです。エントリの仕方を思い出すのに時間が掛かりました。政権批判と、その政権を選んだ無責任で傲岸でメディア脳な有権者批判に終始して dark side of the force に落ちそうな予感満々なので、エントリを控えてます。今日は別の話題が書けそうなので、久し振りに書いています。

今日は午後から植松電機で定例会議でした。帰路のラジオで、命の大切さがどうしても子供たちに伝わらない、という話題をやってました。「君たちの命は、世界中の何よりも貴重で大事なものなんだ」というような話が朝礼で繰り返されます。いい加減にして欲しいです。命より大事なものに出会ったことが無いのでしょうか。

「君たちの命は、世界中の何よりも貴重で大事なものなんだ」という言葉を聞くと、僕は気持ちが萎えます。「政治の最大の責務は最小不幸の実現だ」と総理に言われた時に感じる残念な気持ちと共通するものがあります。ワクワクが削がれるのです。もしこの世に命より大事なものが無いのであれば、僕はそんな世界で生きるのは願い下げです。歯を食い縛る価値が無いです。僕は命が大事だから歯を食い縛って生きているのではありません。あんたはそうかもしれないけど、僕は違います。馬鹿にするなと言いたいです。

ここを読んでいる学齢期の皆さんに断言します。「この世で一番大事なのは命」というのは、嘘です。だから安心してください。この世には、命を懸けてでも守りたいものや、命を懸けてでもやりたいことが、沢山有ります。そういうものに出会えるから、あるいは出会ったから、僕たちは歯を食い縛って生きているのです。

命が大事だから生きているのではないのです。
命が大事だから生きているのではないのです。

大事なことなので2回言いました。


| 社会一般 | 18:53 | comments(7) | trackbacks(0) | pookmark |
憲法記念日(永田)
 今日は憲法記念日です。1947年に日本国憲法が制定されたのを記念して定められた祝日です。3年前のことになりますが、北海道新聞の「越境両断」というコーナーで、憲法改正に賛成する立場から答えたインタビュー記事を掲載頂いたことがあります。護憲派に位置する北海道新聞に、憲法改正賛成の立場で記事が掲載された数少ない事例の一つだろうと思います。当時、文化部を担当しておられたT記者と酒席で盛り上がり、その話面白そうなので後日取材してもいいかと打診頂いたのがきっかけでした。

 1947年の日本はまだ占領下でした。占領下に制定された憲法を保持している国家は、国連加盟国の中で日本だけです。そもそも、占領中にその国の憲法を制定させるという当時の米国の行為が、国際慣例としては異例と言えると思います。我が国は日本国憲法を主権を有する立場で立法機関(国会)において承認したことが一度も有りません。サンフランシスコ講和条約が成立し、独立を回復してから改めて、日本国憲法の発効を国会決議しておくべきではなかったかなと思います。手続き上の話から言えば、我が国の正式な憲法は大日本帝国憲法(いわゆる明治憲法)なんだけれども、実際は日本国憲法がデファクトスタンダードとして使われている、というのが現在の我が国の状況だと思います。

 憲法改正というと必ず9条が論点になりますが、僕が記事において改正を主張したのは9条ではありません。9章です。憲法改正をほぼ不可能にしている96条が書かれている章です。憲法改正は国会だけでできるようにして欲しいです。立法府なんですから。憲法すら変えられなくて何が立法府だと思います。我々国民は立法という権利を付託するために国会議員を選挙で選び、養っているのです。

 改正して欲しいもう一つ。前文。僕は日本国憲法の前文が好きになれません。ルース・ベネディクトの「菊と刀」の匂いがするからです。日本人論としてあまりに有名な「西洋人は罪の文化、日本人は恥の文化」という、あれです。日本人は外界からの目が無いとモラルを守れない。だから外から律してやらなければいけない。未だにこんな低俗な日本人論が読まれている理由が、僕にはさっぱり理解できません。我々が恥を感じる相手は、ご先祖様であり、お天道様であり、更には自分自身なのであって、外からの規律ではありません。清き明き心を美徳とする神道の価値観を縄文の昔から大切にしてきた民族を舐めるなと言いたいです。外から律しないと何をするか判らない日本人を律するために作られたのが日本国憲法。だから簡単に変えられない(縄が解けない)ように、非現実的な改正条項(96条)が付いています。その精神を端的に謳ってるのが憲法前文。菊と刀の匂いがぷんぷんします。

 憲法とは、国の在り方を規定するためのものです。憲法は権力を縛るためのものだと思っている人が多いですが、大間違いです。誰が権力を握っても大したことができないようにガチガチに縛った上で、誰が政権を取っても同じとばかりに政治に関心を持たないのは有権者の怠慢です。我々の投票行動こそが権力を縛るのです。これ以外のもので、権力を縛るべきではありません。条文で権力を縛るのを自縄自縛といいます。我々国民が付託した権力なのです。縛られるのは我々なのだと気付かなければいけません。また、権力を縛ると有権者が劣化します。例えば、日本国総理大臣に核ミサイルのボタンを押す権利が与えられていたとしたら、それでも「お灸を据えたい」という傲慢で無責任な投票動機を保持する人がどのくらいいるでしょうか。

 酒席ではこんな話題で盛り上がったのですが、記事に掲載頂いたのはごく一部です。興味が有る方はこちらからご覧ください。


| 社会一般 | 09:54 | comments(4) | trackbacks(1) | pookmark |
ヤバい経済学(永田)
   4年ほど前にベストセラーになった「ヤバい経済学」という本が有ります。遅れ馳せながら今年の正月に読んだのですが、期待以上の面白さでした。「経済学」という学問に対する印象が変わりました。複雑に相関する社会の事象から、統計学の手法を駆使して因果関係を探り当てる、という内容なのですが、本当は社会学の研究者がやらなきゃいけない仕事なんじゃないかと思います。結論を決めた後、その結論に至る根拠を探し出して好都合な論旨を仕立て上げるという手法がまかり通ってる業界の方々には無理でしょうけど。

 主役となる経済学者はシカゴ大学のスティーブン・レビット。彼の研究を判りやすく噛み砕いて本に纏め上げるのがスティーブン・ダブナー。両者の共著ということになっています。この経済学者が最初に注目を集めたのは、1990年代に全米で犯罪率が激減した理由を解明した論文でした。当時は、ニューヨークのジュリアーニ市長の指揮の元、「割れ窓理論」が成功した、という認識が一般的でした。しかし、データを詳細に調べてみると、ニューヨークで犯罪率が劇的に下がり始めたのは1990年(1993年時点で既に20%減少)、割れ窓理論の実践が始まったのは1994年。実は両者には因果関係が無いのだそうです。その他のデータを全て洗った結果、スティーブンは今まで誰も指摘しなかった要因を突き止めます。1970年代に中絶が合法化されたのが、1990年代に犯罪率が激減した原因だというのです。この論文の論旨は精緻なもので、中絶の合法化と犯罪率の激減は相関関係ではなく因果関係であるという論証まで行われました。1970年代、全米で一斉に中絶が合法化されたわけではなく、州によって数年のずれが有ります。犯罪率の州ごとのデータを調べると、中絶が合法化した年と犯罪率が急減を始める年との間に、強い相関が有るのだそうです。また、各州での中絶率と犯罪減少率との間にも強い相関が有ることが示されました。

 彼の論文は純粋に学術的なものでしたが、社会から強い批判を浴びました。中絶推進論者のレッテルを貼られたのだそうです。研究者として真摯に数字に向き合い、精緻な論考の末に辿り着いた結論の背景には政治的主張は無かっただろうと思います。むしろ、この本の中では、米国で毎年150万件実施される中絶(150万の胎児の命)が、米国で毎年殺される1万人の命(を救うために犯罪率を低下させること)に見合うだろうか?という疑問が投げ掛けられています。学術的論考とモラルとは分けて考えなければいけないという好例だと思います。

 さて、ここまでの話はイントロです。最も印象深かった論考は、子供の教育に関する分析でした。子供の成績を上げるためにはどんな子育てが有効かを、経済学の手法から明らかにする、というものです。分析の手法は同じです。子供の事情と、その子の成績に関するデータを数多く集め、統計学の手法を駆使して因果関係の大小を調べるのです。因果関係が強い事情は、成績を上げるのに有効なので、わが子に提供すべき、ということになります。16個の事情に関して相関が調べられ、以下のような結果が得られました。

意味アリ: 親の教育水準が高い。
意味ナシ: 家族関係が保たれている。

意味アリ:親の社会的・経済的地位が高い。
意味ナシ:最近よりよい界隈に引っ越した。

意味アリ: 母親は30歳以上で最初の子供を産んだ。
意味ナシ: その子が生まれてから幼稚園に入園するまで母親は仕事に就かなかった。

意味アリ: 家に本がたくさんある。
意味ナシ: ほとんど毎日親が本を読んでくれる。

意味アリ: 親は家で英語を話す(米国での研究なので、移民ではないという意味)。
意味ナシ: 親はその子をよく美術館に連れて行く。

他にも有るのですが、個別の事例よりも、それを一般化した解釈のほうが大事ですので、残りは省略します。上記を一般化すると、要するにこういうことです。相関が強いのは、「親がどんな人か」という事情ばかりです。相関が無いのは、「親が何をしてあげるか」という事情ばかりです。つまり、子育てで大事なのは、子供に何をしてあげるか、ではなく、自分(親)はどんな人か、なのだそうです。これはモラルの話ではなく、学術的論考から得られた結論です。

さて、この話を読んだ親がどう思うかで、その後の我が子の人生が分かれます。「何をしてあげても意味無いんだわ。親なりの子にしかならないんだわ」 と思っては駄目です。「子供を変えたければ、自分(親)を変えればいいってことじゃないの。子供にガミガミ押し付けなくていいなんて、有り難いわ。他人を変えるのは至難の業だけど、自分を変えるなら簡単だわ」 と思う親を持つ子は幸せです。我が子に夢を持って欲しければ、自分が持てばいいのです。勉強して欲しければ、自分がすればいいのです。

デフレの次」という記事の中で、最後にこう書きました。インフレ経済下では売り手有利ですから、売り手に回る努力をすれば報われます。作ってあげる側、してあげる側に回る。これがインフレ経済を生き抜くための鉄則です。してあげられないまでも、できるだけしてもらわずに済ませる。そのためには能力が必要です。

平均で、中学生の学習塾に年間で25万円かかるそうです。してあげられないまでも、できるだけしてもらわずに済ませる。自分で教えてはどうでしょうか。数学だけで結構です。他の科目も数学に引っ張られて上がりますから。急には無理でも、例えば我が子が小学生であれば、中学の数学をマスターするのに数年の猶予が有ります。数年かけても中学の数学がマスターできない人は、ごく不通に社会生活を送れている人であれば、いないと思います。開成高校に受かるのを目指すくらいの勢いで、本気で勉強するのです。子供が二人いれば150万円儲かる計算になります。親が勉強すれば子供も負けじと勉強するので(母親に数学で勝てないなんて普通の子なら許容できないです)、教える必要もなくなるかもしれません。

具体的な勉強の仕方については、以前に「知的訓練」というエントリで書きましたので、再掲します。各学年で5冊、3年分で15冊程度の問題集を解き潰せば、中学の数学をマスターできると思います。


| 社会一般 | 23:28 | comments(6) | trackbacks(0) | pookmark |
知的訓練(再掲、永田)
 もう一件、引用したいため再掲です。過去の記事を引用しながらエントリするスタイルが多いため、なんとも不便な状況になってしまいました。ご容赦ください。

(以下、再掲)
2007/06/02 07:40

 今期から「テクニカルイングリッシュ」という授業を担当しています。5〜6人のグループを相手に、技術論文で使われる英語を指導します。1グループにつき3週。一期(半年)で5グループを担当します。今は2グループ目が終わったところです。実は、当研究室ではこれと似た形式のゼミを、卒論生を相手に創設当時からやっています。

 

 指導をしていて毎回思うことは、彼らのリーディング能力の低さです。今の中学や高校の英語の授業では音読の練習をしないのでしょうか。みんなで声を揃えてやるあれです。集団行動の強制に見えるかもしれませんね。もしそういう理由でやらなくなっているのだとしたら、愚かなことです。

 

 授業では最初にリーディングをやらせます。その後に訳させるのですが、単語の意味を無分別に繋げただけの酷い訳である場合が多いです。その時は、訳の説明をせず、もう一度読ませます。更に、僕が読んで聞かせます。これだけで、正しい訳に到達できることが多いです。正しい読み方には文章の意味が宿ります。リーディングは大切なのです。逆に、正しく読めない文章は正しく訳せるわけがありません。文章の意味が取れているのに正しく読めないなんて有り得ないからです。英語を上達させる上で一番大事なことは、何度も声に出して読むことです。これは訓練です。強制してでもやらせなければいけません。

 

 僕の数学の勉強法は、ちょっと変わっていたかもしれません。参考書より先に問題集を使います。問題を見ると、直ぐに答えを見ます。で、その答えをノートに書き写します。次に、答えを見なくてもその論述ができるまで何度もノートに書きます。参考書に戻るのはその後です。問題の解き方が頭に入ってからの方が、数学の体系が見え易いんです。ああ、だからこうやって解くのか、という感じです。数学の体系が見えれば、他の解き方も自由自在になります。この勉強法は大学院受験でも威力を発揮しました。流体力学も熱力学も構造力学も、このやり方でマスターしました。この勉強法の導入部は明らかに訓練です。一つの解き方を身に着ける訓練。この訓練をやらないと、その後の理解が浅くなるような気がします。

 

 中学時代に愛用していたのは「特訓問題集」という問題集です。問題と解答が別冊になっていて、解答は問題の倍の厚さがありました。高校時代も、解答の頁数が問題の頁数より多い問題集を探して愛用していました。数学だけで、毎年5冊くらいの問題集を解き潰していた記憶があります。

 

 子供の頃の僕は、先生の言うとおり、教科書の言うとおりに一生懸命に勉強する子供だったと思います(親には勉強しろと言われたことが無いですが)。この時の知的訓練で培った力が、今の研究で独創性を発揮する基盤になっています。

(再掲以上)


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| 社会一般 | 23:12 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |